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ikeda49
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北海道の冷涼な気候が自分には合っている。
自然は雄大だし、食べ物は美味しい。
妻の病気を通じて、口から食べられることがどんなに人本来の機能なのか判った。

ヤフーのオークションでは北海道の名産を全国に紹介している。

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Posted by さぽろぐ運営事務局 at

2019年10月05日

家族の役割は何だろう? 健康を維持するために心がけることは



  令和元年母の闘病記録を書いてみました


 7年前に父が亡くなった後も、住み慣れた思い出の沢山詰まった自宅で過ごすよと一人住まいをしていた母(95歳)にも老いは進んでいた。
1:脳梗塞で倒れる
平成30年2月中旬、北国札幌は一年で一番寒さの厳しい時期です、妹からの電話は「母が自宅で倒れて脳神経外科病院に救急車で運ばれた」であった、取るものもとりあえずタクシーで駆けつけた。母は治療中で控え室にはケアマネさんがいた。「今日は訪問日で3時頃訪問したら玄関の鍵が開いていて返事がない、異変を感じ室内に入ってみると母が倒れていた、妹に連絡し救急車で病院に運んだ」と心配そうに説明してくれた。
私達兄弟は母とは同居していないが時々交代で見守りをしていた。母は最近除雪が辛いと言ってソファーに横になっていたことを思い出す。
脳の病気は時間との闘いと言われている。母は処置が早かったのでお陰様で短期間で普段の入院生活を開始しました。3度の食事とリハビーリーで院内を歩けるまでに回復しました。後遺症の失語症も日々の規則正しい生活や遠くに住む弟とのテレビ電話で障害の程度も少しずつ改善したように思います。
しかし母が一番の気がかりは住み慣れた自宅です。
「何時家に戻れるの?帰りたい」と話す機会が多くなり、病院の対応にも不満を訴えるようになりました。
母の希望は住み慣れた自宅に戻りたいのです、相談員と退院後の生活について話し合うことにしました。
「高齢者の独り住まいは転倒や事故が多いから難しいよ」と相談員
 しかし、妻の在宅介護で13年もの間体験を積んできた小生には病院の提案が最善とは思えない気持ちがあった。当事者は母と私達兄弟家族の問題です。必ずお互い納得できる方法があると考えました。時期は4月になり気候も暖かくなってきた「母をつれて自宅に外出、そして1泊2日の外泊をしてみたいと病院に話をしました、その結果を考えて退院後の対応を組み立てたいと」申し出ました。急性期の病院は患者を長く入院できない理由がある。病院側も協力してくれた。病院と自宅との距離が近かったことも良かった。
2度の外出と1度の外泊を妹と2人で対応した。何よりも自宅に戻れると思う母の表情が生き生きとしていた、あくまでも主役は母なのです、母の希望を少しでも叶えることが私達家族の役目と心に刻みました。
 そしてケアマネさんをはじめ介護保険事業者との打ち合わせも終わり4月中旬に退院しました。
退院後の母の生活は自由でした「自宅はいいなぁ」何度も聞きました。脳梗塞の後遺症も思ったより軽く慣れることが一番の薬でした。ただ元々あった難聴と今回脳梗塞の後遺症(失語症)は母には堪えたようです。私達も心配でした(電話をしても安否の確認ができないし、帯広に住む叔母にも電話する機会が減りました。
私達も以前より出向回数を増やし多対応しました。

 2:正月は妹家族も集まり家族全員で自宅で迎えた。母は何時もと同じように動き回っていて嬉しそうでした。
1月末母は室内で歩くと胸が苦しいとソファに座るようになっていた、何時もと様子が違うので気に掛かったがソファに座ったりベットに横になり落ち着くと「良くなった」と室内を歩いたり食事をしたり何時もと同じように過ごしていた。
1月30日夜から胸の苦しくなる頻度が多くなり小生は泊まって様子を見た、明日は母を説得して病院に行き検査をしてもらおうと考えた。
翌日食事を食べて気替えをしてタクシーで病院に行った。この病院は小生の行きつけの病院で医師も知っているので母の症状を話したら診ていただけることになった。
心電図やレントゲン等で検査をして頂き、3時頃医師から説明があった。「心臓の働きが良くないので入院して治療をした方が良い、心臓の専門医の居る病院を紹介すると」提案してくれた。
 母は外来のベット上で点滴をしていたが「自宅に帰りたい入院の用意をしてないので自宅に帰りたい」。更に担当医は続けた「自宅に着く前に心臓が止まることもある」と説得して頂き病状の重大さを認識しました。
 母が今までと同じように住み慣れた自宅で過ごせるのであれば専門医に診て頂こうと母と話した。
転院先の病院でも検査がありICUの病床に落ち着いた。
 担当医F医師は「心臓の働きが悪いので肺に水が溜まり呼吸が苦しくなる、治療をするからね」と話してくれた。
昨年の脳梗塞も今回の肺気腫も原因は心臓の働きが悪い心不全が原因と診断を受けました。
その後病院での規則正しい食事とリハビリー治療のお蔭で元気になりました。母は自宅に戻りたい希望があったが、2月の札幌は一番寒さ厳しい持期、木造の自宅での生活は無理だと思いリハビリー目的でS病院に転院しました。
 自宅で草花を愛でたり、野菜を育てたり、十勝で農家をしていた母には一番心の安まる時間を過ごしたい希望が強く本意ではないが仕方がない季節の巡りを待つしかないね。
 4月に入り暖かい日が続くようになった。母も季節の移ろいを感じていた「何時まで入院するの?」と言うようになったし私達も感じていた。
担当医の許可を頂き4月4日に退院し自宅に帰ることになった。2ケ月ぶりの自宅です、一番先に行ったのは御先祖をを祭る仏壇に無事の帰還を報告していた、長い間気に掛かっていたのだね。晴れて住み慣れた自宅に戻れました。
自宅に帰れば介護保険のサービスを利用しての生活です。ケアマネさんや介護業者も同席した話し合いで訪門看護師の派遣やティサービスに行くことを提案された、母は渋々施設に行くことを承諾したが本意ではなかった。
ディサービスに行く日の朝、具合が悪くなり訪問看護師を呼んだ「不正脈」があると病院受診を勧められました。 長い間の入退院生活で体の調子が何時もと違う「自宅でのんびりと過ごしたかった」と思っています。
 自宅での生活も思わしくはないもののなんとか過ごしていた。三度三度食事を取って、処方された薬を飲んでいた。
しかし入退院を繰り返した母には体力も気力が残っていなかった、「この病気は何度も入退院を繰り返す」と言う担当医の話の通り5月末に自分から入院したいと言いました、体がよっぽど辛かったのだと思います。
両親ともに十勝に生まれ私達を育ててくれた、小豆や、ビート畑作、農家は忙しかった朝暗いうちから畑に出て夜暗くなるまで働いていた。豚や乳牛も飼って生活していた。
大正、昭和、平成そして令和と4世代を生き抜いた母に今は「ありがとう」と感謝しかない。
両親ともにゆっくり休んでくださいそして私達を空から見守ってと祈るだけです

   令和元年10月 池田 暁


  

2006年02月07日

1人の仲間が旅立った

【仲間が亡くなった】

小生の趣味は自然を歩くことです。
生まれが十勝の農家で、この都会での雑踏は耐え難いことがある、そんな時は、良く旅に出かけ、自然の中に自分を置いた。
飽きっぽい性格ではあるが、札幌の山岳会には所属している、(今は山には登らないので、専ら月一回の飲み会を楽しみにしている会員であるが)

実は昨年7月まで、ハードに山登りを続け北海道の大自然を踏破していた仲間が病魔に負けた。
そしてまだ50代でこの世を去った。
昨年何度か見舞いに行った。
彼は「何で俺が病気になったのか」と呟いていた。
きっと、悔しいのでしょう。もっと、もっとし残したことが沢山あったのでしょう。
しかし、定めですね、運命ですね。

人生70代とも80代とも言われるが、これは平均寿命である。
この世を去ると、単に思い出しか残らない。  続きを読む